36号(1984年7月)

●個の生の危機と詩の衰弱

 

▼「舟」は36号で9年目を終わり、次号より10年目に入る。季刊同人詩誌「舟」は1975年8月15日創刊。笹岡信彦のダイナミックな表紙画と、向井隆豊のみずみずしい目次画を得て出発した。詩は金丸桝一、北村均、武子和幸、菅野仁、中正敏、一色真理、斎藤直巳、岡崎功、経田佑介、井奥行彦、鈴木漠、山崎和枝、角田清文、天野たむる(河井洋)、鈴木満、大家正志、なんば・ みちこ,こたきこなみ、日原正彦、麦田穣。エッセイは一色真理、西一知、金丸桝一、相沢史郎、笹岡信彦、斎藤直巳、経田佑介。A5判、本文64頁、450部であった。いまは絶版、品切れとなった創刊号<後記>を引用してみよう。

 ”本誌は、今春、中正敏と西一知によって提案された。そして、予定通り8月創刊を迎えた。地域、世代、さまざまの問題を超えてここに―つの強い詩精神の場が生まれ得たのには、もとよりそれなりの理由があるが、この欄でそれを主張したくはない。いかなるマニフェストよりも深くぼくらをつき動かしている何かがあったのだ、というにとどめたい。ぼくらは、それを凝視する。

 それは、これから徐々に明らかにされるであろう。読者諸賢もそれをみつめていただきたい。”(全文)

 「舟」創刊の主旨は、その後4号で発表された<レアリテの会発足の覚え書>(本号51頁に再掲)にみられる通りだが、この9年間、同人の入れ替わりはかなり多かったけれども創刊時の詩精神は一貫して貫かれてきているように思う。

 現代詩の衰弱が云々されているとき、「舟」はひたすら<自己の深化>の問題と取り組んできた。いわゆる今日的問題へのアプローチは、「舟」ではほとんど行われてこなかったが、時代に対するアクチュアルなかかわりを私たちは避けていたのではない。ただ、そのかかわり方が問題である。現実とは何か。マスコミ、ジャーナリズムが報道し、解説するものが、私たちの現実であろうか。現実そのものはつねに沈黙している。詩人が時代にかかわるということは、この現実に目を開き、声を聞き、その深層を全的に直観するということではないだろうか。それは、<自己の深化>なしにはあり得ないことなのだ。<発足の覚え書>で”いまや、詩人の行為は個の生の危機との戦いである“といったが、個の生をおびやかす最大のものは、核や、コンピューターによる管理社会云々以前に、個の意識の衰弱、感性の画一化など、まず自己自身の問題があるはずである。「舟」はこの9年間、まずみずからの詩人としての能力の開発と蓄積に全力を傾けてきた。

 「舟」9年目の最後の本号は、期せずして宗教にかかわるエッセー特集の観を呈した。期せずして、というのは、「舟」には今まで編集企画というものがなく、同人は毎号書きたいものを自由に書き、頁数の都合以外にはそれらはすべてそのまま載せるという方針できているからで、それがここで宗教、すなわち生き方、すなわち倫理の問題に集中してきていることに注目したいのである。「舟」1号は、一色真理の巻頭工ッセー<荒野で獅子が——詩人の態度価値>で幕を開けた。詩における人間の全体性において倫理はその核となるものである。同人の入れ替わりは多かったけれども、詩の根源に向ける同人のまなざしはつねに熱く、志はより高い方へと、この緊張は持続され、本号にはその必然の帰結がみられると思うがいかがであろうか。

 詩と宗教の問題にここで一言触れておくならば、宗教は現実逃避の具ではなく、逆に侵入の武器となるものであるということである。A・ブルトンは、シュルレアリスムもレアリスムであるといっているが、シュルレアリスムはいまや世界的傾向としてレアリスムでなくシュルとなってしまった。それは、現実に目を開かせるものではなく、現実から目を逸らさせる具となり果てた。宗教にも、レアリスムとしての宗教とそうでないものがある。オカルト、麻薬、セックスの次元に宗教が加わっていく危機をここで論じる余裕はないが、詩人はここで想像力の役割というものをしっかり把握しておく必要があろう。すなわち、想像力とは現実逃避の具ではなく、現実の発見、現実変革の原動力となるものであり、それは自己と世界発見のための至上の武器となるもの、人間の尊厳を担うものだということを、である。

 時代に対するアクチュアルなかかわり方は詩人においては、マスコミ、ジャーナリズムの後塵を拝するようなものである必要はないし、「レアリテの会発足の覚え書」は10年目以降においてさらに重要となるであろう。

▼表紙画は本号より谷口幸三郎氏から梅崎幸吉氏へ、目次画も同人小紋章子から針生夏樹氏ヘバトンタッチされた。谷口氏は17号以来、小紋は20号以来35号までの長きにわたって寄せられた。感謝申し上げる。ことに谷口氏の毎号の画の変貌と進展は驚くばかりで、「舟」は表紙画を待つ楽しみもある、といわれてきた。氏も「舟」が続く限り、といって下さっていたが、「舟」には新しい画家を紹介する仕事もひとつある。谷口氏も20代の青春は越したし、大きな発展を期待して新しい人に席を譲っていただいた。梅崎幸吉氏も30代に入ったばかり。このような激しい精神性を追求する画は今日稀有と思われる。原画はコラージュの手法だがオブジェに迫る。目次画の針生夏樹氏は今春明治学院大卒。「負の覚書」等自主製作映画の脚本・監督、画家。どのような発展をみせるか期待したい。

▼相沢史郎、東国三郎は本人の事情により本号からしばらく休会する。

 藍原準は本号から房本範丈に変更。

 新しく都築佳代子を同人に迎える。同人誌参加は初めてであるのでよろしく。

▼武田弘子の第1詩集『陸橋』(混沌社、1500円)が表紙にエドワルド・ムンクの画を配して5月に刊行された。高知の窪川町にひっそりと身を置き、闇から日常へ、日常から闇へと、10年余の詩人の足跡の集積である。

 江部俊夫(小川俊夫)も編集に参加している高知県こども詩集第8集『やまもも』(高知県児童詩研究会、1200円)が刊行された。県下209校、6200余篇から選ばれたものという。毎年こういう仕事を続けることは大変貴重で、意味も大きく、敬意を表するが、この集はうまくおさまり過ぎた詩が多い。優等生的な詩が多いということは、入選を意識して書くこどもに問題があるのか、選ぶ基準に問題があるのか、いずれにしても、詩とは何かをもう一度考え直すべき段階にきているように思われる。

 先号予告の大河原巌エッセー集『現実を超える幻想・断章』が『個我の危機と言語』と改題して雄山閣出版(株)より発売された。定価1500円。先の詩集『自画像』とあわせてぜひご覧願いたい。

 仙石まことが「舟」旧同人中本耕治氏と詩誌「COPAIN」を始めた。創刊号には大瀬孝和がゲスト。一つの方向性が感じられる。

(西)

本号編集同人(40号まで)遠山 西

37号(1984年10月)

●詩史は人間の歴史

 

▼去る8月1 3 日「朝日新聞」掲載の大岡信氏<現代詩がめざすもの>は、詩の前衛性に触れているもので注目した。「現代詩手帖」25周年特集から最近の「詩学」 までを紹介、その締めくくりとして”前衛の魅力薄れる”という小見出しで次のように述べられている。

 現代詩は新体詩以来、とくに大正後半期以後「詩こそ文学・芸術全体のなかでたえず前衛的な位置に立つべきものであり、現に立っているのだという自負の念」に支えられてきたが、「その自負の念は、1960年代末期の大学紛争を重要な区切りとして、70年代以降の現代詩の世界からは静かに退潮していった」とし、その前衛性は、たとえば現代の情報システムひとつをとってみても、そのメディアの発達ぶりに食われてしまっていて、「現代詩の書き手がどんなに逆立ちしてみても追いつくはずもない」から「根源的な『ことば』にもう一度立ち返ること」、「前衛的であることよりも、むしろ後衛たることを選ぶことによって、たとえば使い捨ての思想に対する反抗の根拠地を築くこと」ーー 、以上がその大要である。

 この一文を読んでまず思うことは、「古典的詩歌伝統に対する」新体詩以来の自由詩の担う前衛的役割が、本質の次元で、つまり人間的次元で捉えられていないということである。前衛はこの場合、定型に対する自由と同義語で、自由詩がこの前衛性を失えばその存立の基盤はなくなるといってよい。氏は、'70年代以降の詩はその存立の基盤を失ったというのであろうか。

 大正後半期以降の詩の歴史を単なる形式の変遷、ファッション史とみるならば、前衛=使い捨ての思想の時代は終わったとして「後衛たることを選ぶ」という氏の気持が理解できないではない。しかし、前衛とは古い様式を破り、自己蘇生を目指すもの、つまり、蘇りの精神と解することもできる。たとえば、「リアン」や「詩と詩論」等の営為をひとつのファッション、使い捨ての思想とみることもできよう。しかし、そのファッションに自我の主張、存在への希求、蘇りの精神をみることもできる。私は、この精神の継承はまだ終わっていないと思うし、もしも'70年代以降の詩にこの精神が稀薄だとするならば、それを支える個の生の稀薄こそ問題として据えられるべきではないかと思う。

 大岡氏の問題のもう一点は、その解決策として、前衛はマスメディアにでも譲って「根源的な『ことば』にもう一度立ち返る」といわれるが、前衛を放棄した詩人が求めることばとは何であろうか。それは、ひとつの古典的規範であろうか。それとも、ことばのない世界におけることばというような存在論的世界のものであろうか。私は、詩は詩人が生きたとき生まれることばである、と端的にいおう。ことばではなく、現実が私にことばを与えてくれる。私は詩を書こうと思うとき、古典的詩法に向かってではなく、現実に向かって私を開かなければならない。そのとき、新しい詩法が生まれる。それが詩なのだと思う。新体詩以降の自由詩の未熟、貧しさは、大岡氏も熟知しておられるであろう。しかし、それは詩の未熟、貧しさというより、日本の近・現代人の人間としての未熟、貧しさ以外の何ものでもない、といえるのではあるまいか。戦後日本人の営為が何であったかがいま厳しく問われていると思う。私たちが手に入れたかと思った人間的なものが、いまずるずると敗退していく。前衛的なるもの、自由詩の基盤が外からも内からも崩れていくとき、私は愚かかも知れぬが、前衛を放棄して 「根源的な 『ことば』にもう一度立ち返る」というのでなく、惨憺たる試行錯誤の道かも知れぬが新体詩以後の自由詩の人たちがもった「自負の念」を、いま一度確かめざるを得ないのである。そして、これが1975年創刊「舟」の10年目第1号における感想である。

▼本号より次の2氏を迎えた。

 奥津さちよ 1947年横浜市生、元「花・現代詩」同人。

 吉田博子 1943年生、「黄薔薇」「現実超現実」同人。詩集『花を持つ私』『影について』『石仏のように』『雪をください』『わたしの冠』『吉田博子詩集』あり。

 「舟」創刊当時、女性の仲間は非常に少なかったが、最近は圧倒される感がある。性の問題は、生きる(書く)条件においても重要な意味をもつが、本誌において<女流詩人>という呼称はあえて必要としない。 2氏の参加が10年目以降の「舟」にどのようなものをもたらすかにご注目いただきたい。

▼10月19日、東京・目黒のアンセルモ教会で木村雅信の新作「RICERCARE OP151」が発表される。弦楽合奏曲で、シュトルム合奏団定期演奏会による。なお、翌2 0 日(土)PM3より「舟」発行所にて木村雅信を囲む集いを考えている。参加希望の方は前日までにご連絡を。

▼12月4~16日、東京・上野 「スペース ・ニキ」(TEL836-2322 )にて、会田綱雄氏と小紋章子の二人展が開催される。

 AM11・00~PM6・30(月曜休館)。

▼私事で恐縮だが西編集の月刊 「珈琲連邦」(喫茶店ぽえむチェーン本部日珈販発行)が、この10月で150号を迎え、カラー印刷、増頁(12頁)となった。西の連載・詩の頁も73回となったが、今号は<戦後詩の傑作・木津豊太郎の詩>紹介である。「珈琲連邦」の読者は格別詩に関係のある人たちではないが、この欄は終始一貫、いわゆる詩の解説もどきでお茶を濁すようなものではなく、現代において何が詩であり、詩でないかを真っ向から問おうとするものであり、読者への迎合、妥協は全くない。今号の詩などは戦後最も難解と目されたものだが、やはり読み方の解説は一言も加えていない。全体をとおしてひとつの詩論の実践的展開であるが、この夏はじめて行った定期読者3500人を対象とするアンケート調査では、詩の本質的なものへの反応の仕方は、詩で毒されたアタマより彼らの方がよりノーマルであるように思われた。コーヒー関係の記事が多いが、マンガの永島慎二氏、作曲家の小室等氏の連載は、最近いずれも旺文社文庫に入ったがまだ延々と続いている。

(西)

38号(1985年1月)

●読者のニーズに応えるべきか?

▼1985年が始まるーー、「舟」の読者の皆様、「舟」の進路をよく理解し、ご声援くださる方々、詩を愛するすべての方々に、

 新年明けましておめでとうございます

と、申し上げます。

 詩は、昨年暮れ服部伸六さんによって訳されたウジェーヌ・ギュヴィック自伝『詩を生きる』(青山館、2000円)が述べる、”いったいどういう見方をすれば人生は不条理になるんだ。ぼくらは素材なんだ。ぼくらはすでに考える人、行動する人、愛する人、生きて書く人になっているんだよ“というほどに、ぼくのなかには確固たる基盤がまだ出来ていない、ヨブやシジフォスの如き心境に囚われるときもありますが、いずれにせよ、それも含めて、究極にはそれが”生の頌歌“であることは間違いないと思っております。ロートレアモンが『ポエジー』で述べているように”詩は、泣きごとでも、へ理屈でもなく、万人を慰すもの”であり、そして、これが肝心のことだと思うのですが、”私はただ一度きりの生を享けたという恩寵だけで十分だ”といい、”大海の水をもってしても知的な血の一滴は洗い流せない”といっていることに、ぼくもこの生がたとえどのような生であろうと、そして、1980年代後半がどのような時代に突入しようと、全く同感したく思います。ギュヴィックは、マチェールを塗ることによって右の確信に到達した。しかし、塗るということは全く自由で、気ままなことだろうか。ぼくは、人生はさまざまな格闘をとおして彩られるものと思います。憲兵を父にもった幼年時代、ナチ占領下でドリュ(ナチ協力者、のち自殺)に認められるが、レジスタンス活動に参加、そのような体験をとおしてギュヴィックという素材は彩られていきます。

 ”ぼくらは素材“とは、なんと素晴らしい言葉でしょうか。それにつけても思い出すのは、最近、某商業詩誌の座談会で、「詩はコピーになり得るか」という奇妙な小見出しで、詩人をもって認じていらっしゃる某氏が”詩人はコピーライターに比べて権威主義で尊大だ”というような発言をされていたが、そしてまた、某誌では、詩人某氏が”読者のいない現代詩は亡んだ”として、”詩人は読者のニーズにターゲットを絞るべきだ“という意味のことを述べたりしておられたが、こういうことは、表現が人間の生の尊厳と不可分のものであるということから、故意に目をそらさせようとするものであるとぼくはいいたい。”芸術作品は作者の精神と同位元素だ”といったのは、今世紀初めのダダイストだが、ぼく達はたとえ尊大といわれようと、現代の情報産業によってドメスティックアニマル化した読者のニーズなどは無視して、この1985年を生きる、失意の、貧しい、孤独な生、そこにある溜息や、涙や、ほおえみに迎えられる、わずかばかりの詩が書けたら、と思うのです。そのためには、そういうものと通底する孤独を、詩人はしっかりもっていなければならないし、そこになにがあるかをよく知っていなければならないと思います。もしも現代詩が亡ぶとしたら、読者がいないからではなく、作者がいないからだ、とぼくは断言しましょう。みずからが”素材“であるということに気付く作者が、です。

 「舟」は千人の読者を求めてはいません。人間の真の連帯は、孤独をとおしてしか生まれない、詩は、そのような人間の連帯のキーポイントだとぼくは思っています。ひとりの人が本当に共感してくれる詩、そしてまた、そのような詩の読者と出会えることを念願に「舟」は続けていきたいと思っています。

 '80年代後半は、ぼく達が生きていく意味、詩を書く原点が、きびしく問われる時代になると思います。ぼくはしかし、どのような状況下であろうと、詩は”生の頌歌“でありたい、と思っています。「舟」の方向は、大きな目でみつめてください。

▼レアリテ叢書15集・本橋克行詩集『目を閉じて』、16集・伊藤芳博詩集『努屈することなかれ 』が、「舟」本号とほば同時に出来た。本橋の詩集には、言葉は少ないが深く心を洗われるものがあり、伊藤のこの第1詩集には若い純ーでフレッシュな感性が、確かな形で定着されているように思う。レアリテの会が自信をもっておすすめしたい詩集である。

 扶川茂の既刊詩集 『ゆうこ』『教室詩集』から選んだものに新作を加えて、このほど新詩集『木のぼりむすめ』がかど創房より企画出版として出された (1000円)。小学校の児童と先生をテーマの詩で平明だが、ふと生の深淵を垣間見させるところは非凡。教育にかかわらない人にも一読をすすめたい。

▼同人各地の活動状況を詳細に伝えるのは困難だが、手近にある最近のものを列挙すると、芳賀章内氏発行の季刊詩誌「鮫」20号が<特集・大河原巌の詩と思想>を組んでいる。遠山、西も寄稿。「鮫」は'80年代詩人の良心を示す重要な詩誌の 一つといえよう (500円)。

 この原稿執筆さ中に「湾」別冊<和田徹三の世界>(沖積舎、1200円)が送られてきた。星野徹氏を中心に、十分な時間をかけて編まれた和田徹三氏と「湾」30年を一望出来る労作で、日本の近・現代詩に欠ける重要な詩の支柱の追求が、詩人和田徹三の営為のなかにあるとみたい。”極北”ではなく、現代詩の”中心”にこの営為を据えてみると、日本の戦後詩はどうなるであろうか。西も小文を寄稿している。

 新潟・三条市の経田佑介は多忙のなかで、ホイットマン研究家故長沼重隆氏の年譜作成に取り組んでいるが、一方、ラビ・シャンカールの弟子キッショールを招いたり、弘前市に出かけて、白石、吉増、八木、泉谷明の諸氏と合流して詩を朗読したりしている。

 木村雅信の目黒聖アンセルモ教会で発表された新作<リチェルカーレ>は、いわゆる情緒的なものではなく、深い精神性をもった力作であった。北海道新聞連載の「魚眼図」もユニークである。

 松尾静明は新年度より朝日新聞(大阪本社)「心のページ」へ毎月1回エッセーを書くことになり、本誌のエッセーは少し休む予定。

 小紋章子は12月の会田綱雄氏との二人展に引き続き、同じ上野「スペース・ニキ」で、1月8~27日、川仁俊恵、二樹洋子、小紋章子、山領まり展に出品予定。

 同人の刊行する詩誌、「垂線」(冬京太郎)、「橄欖」( 日原正彦)、「照葉樹」(江部俊夫)、「亜」(指田一)、「水甕」}(大家正志)、「想像」(羽生康ニ・槙子)等も、情熱的に自己を掘り下げ、拡大していっている。同人が参加、活躍する舞台は多いが、リトルマガジンで、中村えつこが参加する「鷭」、野仲美弥子が加わった「展」などの仕事も、今年は見逃せないものと思っている。

▼井上勝子、千葉茂両氏が本人の事情で退会。斎藤直巳が本号より復帰。新たに合田曠氏が同人参加。合田氏は1919年、徳島県生れ。月刊「詩脈」編輯同人で、近著詩集『断層』『GOOD NIGHT』『ノートに羽根のような詩があった』等がある。

▼氏名変更 房本範丈←房本儀丈。

(西)

39号(1985年4月)

●詩は青春のものだ

▼一篇の詩の生命を永続させるものは何であろうか。いうまでもなく、それは一部の取り巻き連の賞揚や、マスコミ、権威団体等の推奨によるものではなく、作品そのものに内在するものであろう。そして、作品に内在する生命的なものは技量だけでは生み出し得ない——。雨続きの3月、日ごとにふくらむ木の芽を眺めながら、ふとこんなことを思った。同時にまた、かつて大変お世話になった小出版社主故M氏の言葉を思い出していた。

 「詩集は、大体において第一詩集がいい。詩は、絶対に青春のものだね」

 バルザックの異名をもつ白髪のM氏はぼくの顔を見てニンマリ笑ったが、当時すでに30半ばのぼくは、反論すべくもなく黙って唇をかみしめていた。<絶対>という言葉が強烈だった。しかし、いまこの言葉の重大さにあらためて気付く。

 詩作の初め、詩は誰でも噴き出すように湧いてくるものだ。人はこれをシロウトという。やがて、表現方法の追求に専念し、作品は巧妙になってくる。人はこれをクロウトという。しかし、ここに第一歩の落し穴があるのではないか。ピカソは若い日、マチスの画に対して「同じ画を二度売るようなものだ」といったと伝えられるが、ピカソが当時、みずからの表現方法をつねに破壊し、新たな冒険を求めていったのは、噴出する最初のエネルギー、青春の持続ではなかっただろうか。

 昨年は春、札幌に和田徹三氏をお訪ねした。秋は名古屋に、池原魚眠洞氏をお訪ねした。70代半ばの和田氏と、90歳を超された魚眠洞氏と、このお二人の先達に圧倒されたのは、その純粋な青春の炎によってである。

 「舟」は、作品及び作品を生み出す作者の可能性を重視する。

 作品重視はすべての詩誌に共通することでとりわけそれを強調することはない、とおっしゃる方もいるかも知れない。しかし、何が作品か、である。最近某商業詩誌の如く、名前(写真入り)ばかり麗々しく、作品は思い入れたっぷりの、気配りばかりのものが累々と並んでいるのをみると、ここは詩の墓場かと慄然としてしまう。こういう才能の枯れはてた自称詩人ばかり集める詩誌にも問題はあるが、初心を忘れ、読者を甘くみくびった詩人の方にこそ大きな問題がある。出版社は詩人の頭をすげかえることは簡単かも知れないが、詩人は自分の頭をすげかえることはできないのだ。

 「舟」が作品を重視するということは、そこに現在を生きているヴィヴィドな人間がいるかどうか、それを重視するということである。従来の自己をうち破る作者にとっての何らかの新しい発見、創造が、新しい作品にあるかどうか、ということである。名前は、作品に対する責任の所在を示すものにしかすぎない。作品が、文字通りすべてである。

 作品とは何か、をもう一歩踏み込んでいうならば、そこに示された素材でも、技量でもなく、そこに示された作者の感性、意識そのものである。いかにそこに十全に、現在を生きている作者がいるか、ということである。このうちふるえるヴィヴィドな存在は、既成のいかなる詩の概念でもなく、読者の直接的な、開かれた自由な感性で捉える以外にない。警戒すべきは、自由詩を狭い形式の世界で考えることである。詩か、小説か、エッセーか? こういう部類分けも「舟」では問題ではない。重要なのは、形式ではなく詩精神の有無である。あらゆる文学、芸術の根本になくてはならない詩、青春をなくしてどうしてそのような詩があり得よう。

▼昨年秋、かど創房刊の扶川茂詩集『木のぼりむすめ』(1000円)は、こどもたちや父兄に著者も驚くほどの人気があるという。3月30日夜東京青山会館で、同出版社刊鈴木美智子詩集『母が在す』との合同出版記念会が開かれる。発起人・村野むつ(故村野四郎夫人)、星野徹、小出ふみ子、西一知ほか。なお、扶川発行の「戯」18号は村野四郎の未定稿「わたしの詩的遍歴」123枚を一挙掲載して貴重。

▼羽生康ニ・槇子夫妻の「想像」は愛媛の織田が浜を守る運動にも力を入れているが、27号はこの問題に関して美濃部亮吉・時子夫妻と槇子さんが開いた座談を掲載し、昨年末亡くなられた美濃部亮吉氏に深い哀悼を捧げている。

 ”詩集はいまや古本屋にも売れない… ”と某詩誌でいっている人がいたが、小さな同人誌などはどうお考えだろうか。「想像」はもと無料で配布していた。「垂線」「水甕」「照葉樹」「橄欖」「こぱん」など、「舟」同人が各地で出す小冊子はマスコミ人などの目にもとまらないだろうが、人間と人間との大事な架け橋とはなっていないだろうか。詩の氾濫を現象的に眺めるだけでなく、詩にかかわるならば、詩と人間に対する深い、謙虚なまなざしこそ必要ではないか。

▼レアリテ叢書本橋克行詩集『目を閉じて』と伊藤芳博詩集『努屈することなかれ』は、異なった個性であるが、共に現代詩のオーソドキシーを示し得ていると思う。著者に寄せられた感想を拝見すると、意外なほど多くの方が詩を真正面から見すえられていることにうたれた。意外というのは、ひとひねりした詩や、見方が横行している時代だからである。先日、俳優の江守徹氏と会ったとき、”まともなことをまともに、本当にすばらしくまともにいえば、それは感動を与える”とおっしゃったが、詩人でいまこれほど真っすぐいえる人がどれほどいるだろうか、と思ったりしていたからである。しかし、いるのである。マスコミの次元でなく、もっと深いところでぼくたちは連帯しなければならないし、それはできるはずで、今回の詩集がその架け橋の役割を担ったことを喜びとしたい。

 なお、伊藤詩集出版記念会をささやかだが4月20日(土)PM3より名古屋のレストラン・マイファニィ、会費4000円で開く予定。呼びかけ人は大西美千代、日原正彦、西一知。

▼木村雅信作アイヌの素材による舞曲全33曲「3台のピアノによる交霊」演奏会が、1月23日札幌市教育文化会館で催された。2月25日はヤマハセンター第2ホールでエリック・サティを、3月21日は同教育文化会館で第6回札幌現代音楽展によるJ・S・バッハ生誕300年記念演奏会の指揮を木村が担当した。

▼経田佑介は2月10日新潟市三業会館で、奥成達氏らも加わるジャズグループBUSを迎え、新潟の詩人4人と共に「詩とジャズの夕ベ」を開催。「ブルー・ジャケット」23号には昨年の津軽ポエトリー・ツアー特集予定。

▼表紙画梅崎幸吉氏は2月、銀座7の11の11長谷川ビル2階に「ケルビーム」を開廊。記念展14名の作品は、若い、自由で強靭な精神の場の幕開けにふさわしいものであった。

▼指田一氏は本人の事情で退会。新しく文屋順氏を迎えた。'53年生。「玄」「原始林」同人。詩集『片辺り』('83年、文芸東北新社)。

(西)

40号(1985年7月)

●普遍的なものへの参画

▼「舟」40号。「舟」に10回目の夏がやってきた。夏がくると、創刊当時の熱っぽい感覚を思い起こす。しかし、今、この10年についての特別の感慨は全くない。あるーつのことをみつめ、それに夢中になっていたように思う。各号の現在形がすべてで、各号が新しく、40の号をつないでそこに「舟」の航跡をみる気持など目下のところない。

 ある―つのこととは何か。「舟」の舳先はつねに未見のある予感を孕んだ空間に向けられてきた。それは、未だ文学とはなっていない空間、といったらいいだろうか。舳先が波を切り裂くたびに新しい世界が見えてくる、この何かしら新しい発見のために「舟」は回を重ねてきたように思う。

 発見、だが、これは、殆どみずからの卑小な判断や意志によるものではない。詩作はもとより、芸術に関するすべての行為は、自己の判断や意志によるというより、自己自身も知らぬ何かある大きな力、始源の、普遍的なとでもいいたいある大きな力によって導かれるものではないだろうか。でなければ、どうして誰もまだ見たこともない夜明けの光のようなものを作品に封じ込めることができるだろうか。

 みずからがみずからの意志を超え、ある大きな普遍的なものにうながされ、その意志を体現したとき、人ははじめて何かを見得るのだといっていい。古来、真の詩や芸術には、必ずこのような体験が含まれているはずである。

 自己の判断や意志の放棄、これは相当にスリリングなことである。しかし、これは自己消滅を意味しない。みずからを超えたある始源の、大きな普遍的なものにアンガジェすることは、逆に自己の本源をとり戻すことではなかろうか。宇宙に遍満するであろうそれはみずからの外だけではなく内にもあるはずだからである。この場合、アンガジェは自己消滅ではなく、あきらかに自己再生であるしかも、この場合の自己再生はA・ランボオのいった”銅がラッパになる”ことであり、自己が”他者”になるという自己の生まれ変わりを意味する。<レアリテの会発足の覚え書>を注意深く読まれる方は、”個の復権”ということが単に社会的次元にとどまらず、このような”個の充実”をも含んでいることに気づかれるであろう。このスリルこそ、古来詩人、芸術家の至上の悦びであったに違いない。

 <レアリテの会発足の覚え書>は、戦後30年目に書かれた一つの予見、直観にすぎない。10年前の直観は今や現実となった。「舟」はいま大洋の真っただ中にいるという感じである。「舟」を導いてくれるものは何であろうか。詩人はほんの数百年前までは、詩作に入る前に詩神の訪れを祈ったものだが今は殆どの詩人は自分で書けると思っているようだ。今はそのような時代だ。だがぼくは、卑小な自己は消滅させなければならないと思う。詩神の訪れを祈り、その大いなる力に「舟」の針路を導いてもらおう。「舟」の方向をあやまたせぬために。「舟」の詩が真に人類的なものとなるために。

 「舟」の編集は、ここしばらく遠山信男、西一知の2人であったが、創刊11年目の41号からは日原正彦が加わり3人となる。ともにムーサイの忠実な使徒である。

▼「舟」は創刊以来、詩の表現形式のことよりも<詩以前>の問題に関心を払ってきた。表現は各人のものであると思うからだが、ただ次のことは頭にとどめておく必要があるように思う。日本の自由詩の不幸の一つに、一方に伝統的な定型詩があり、一方に小説というジャンルがあり、それにはさまれて、一つの表現形式として自由詩があるということである。本誌でいえば、斎藤直巳の「ゆめそろよ」や横倉れいの「猫の仔トラちゃんのお話」また小松重子の「エメラルド・ノート」などは、一体何のジャンルに入るであろうか。小説、童話、エッセーと分けて読まれるであろうか。作品はどのように読まれようと自由であるが、本誌ではこれらを他の作品と同様に詩作品としてとり扱っている。小説と詩のジャンル分けは、小説と詩の双方をいずれは衰退させてしまうと思うからである。詩人の書くエッセーも、学者や評論家のそれとは異なり発見と創造に満ちた詩精神の発露であるべきはずである。遠山信男や木村雅信のエッセーはそれに該当するものであろう。遠山、梶原礼之の長篇詩も、日本の詩の地平に何かをもたらすものになりつつあるように思われる。「舟」はこういう読まれ方もしていただきたいのである。

▼今号、羽生康二エッセーは新体詩からはじまった自由詩史検討の一連のものであるが、「想像」28号から連載の<萩原恭次郎と『死刑宣告』>も併せて読まれることをおすすめする。

 鈴木俊の村野四郎に関するエッセーは前号まで4回続いたが今号は休載、次号に期待されたい。麦田穣の「法華経と賢治7」も次号には掲載予定。

 こたきこなみの連載エッセーも現代詩への重要な提言となりつつあるが、昨年末「詩と思想」29号<'84総括座談会「詩よ死ぬな」小海永二、関根弘、こたき>につづいて、「詩人会議」7月号座談会<詩とコピー「詩人は魂の深部に届く言葉を!」中上哲夫、大串浩、こたき>に出席。

▼中村えつこ詩集『君帰』(書肆山田、1800円)と長尾軫詩集『窓の月』(書房ふたば、2000円)が出た。ともにシュルレアルなまなざしを確かにもった詩集で、シュルレアリスムをレアリスムでなく単なるファンタジーと思い込んでいる人には特にご覧いただきたい。ともに男女の深淵を描いて凄みがあるが、中村は女性、長尾は男性。ともに'46年生まれである。

▼5 月下旬、札幌市で開かれた<'85いけばな5つの個展(第4 回)ー音を素材にして>は木村雅信作曲「アイヌの素材による舞曲集」をテーマに、<音>へのいけばな的表現による挑戦であったようだが、音と花の出会いというのはとてもおもしろい。木村は”ドイツ語のバッハは小川のことだ”ということで、「水と器と風と」という小文をこの個展の冊子に寄せている。いけばなのこういう動きには注目したい。

▼経田佑介の個人誌「blue jacket」23号は<つがるポエトリー・ツアー特集>。昨年11月に弘前市「スペース・デネガ」で開かれた泉谷栄氏企画<詩朗読「詩に何ができるか」泉谷明、白石かずこ、八木忠栄、吉増剛造、経田佑介>に参加の詳細を主にしたものだが、A4変型の大判50頁全部を自分でワープロ、版下作成したもので、経田の詩への熱気が渦巻いている (500円)。6月7日(「舟」同人会前夜)経田はそれを持って西宅に現れ、翌日は静岡で行われる吉増+マリリアの<言葉と舞>に参加、その翌日は京都の白地社へ今秋刊行予定の詩集原稿を渡しに出かけた。経田に日本は狭すぎるかも知れない。

(西)