26号(1982年1月)

●レアリテ叢書、選書出版

 

▼81年は、前年暮れから始めた『レアリテ叢書』が第1集日原正彦詩集から第6集関根隆詩集まで実現した。82年もすでに個性的な詩集がいくつか予定されているので精力的に取り組みたい。81年暮れは、これとは別に『レアリテ選書』刊行に着手した。『叢書』の方はこれまでの経過からみて作品集だけに絞り、『選書』のほうは新しい時代の文学、芸術の理論追及のためのエッセイ集シリーズと考えている。『叢書』も『選書』もいわゆる商業出版ではないので、はがゆいけれども企画出版は当面できない。しばらくは自費出版の形でいくが、中身は精選し、著者への負担はなるべく軽減する方向で努力していきたい。なお、『叢書』も『選書』も同人だけが占有する狭い視野のものではなく、共鳴する詩人、芸術家にも参加いただき、今日の文学、芸術の新しい方向の探求に役立てばいいと願っている。関心のある方の参加を希望する。

▼本号に、カベタナキス「ギリシア現代詩とは何か」を翻訳・解説くださった鹿狩浩氏に厚く御礼申し上げる。氏は1917年、中国・青島生れ。ロンドン大イムペァリアルカレジ原子力修。『暦象』同人。詩集『環』(GYRE)66年<新領土の会>空間社刊あり。かつて氏の古代から現代にいたる詩と化学の縦横無尽のお話に接し、7、8人で聞くのはいささかもったいないと思い、ご寄稿を願った。今まで『舟』に寄稿をお願いした方は、いずれも同志的なお気持ちで快諾下さった。これも一つの出会いである。この出会いが、『舟』の読書、同人の個の生の深化、充実に少しでも役立てばと願っている。

▼81年10月、日本現代詩人会主催56年度後期第1回「現代詩ゼミナール」<H氏賞詩人・青春と文学を語る>に一色真理が、11月、同第2回ゼミ<同人詩誌討論会・いま詩に何を求めるか>(風、射撃祭、地球、白亜紀、舟)に、『白亜紀』から鈴木満が、『舟』から西一知が出席した。

 また、同年10月、ヨーロッパ日本学会主催の西ドイツ、ボーフム大学「ジャパン・シンポジウム」の文化セクションで、相沢史郎が「戦後史の動向」を発表。ヨーロッパの研究者や詩人から多数の質問が出たが、要約すると①詩の文学的環境(詩と読書・出版・市場の問題)、②詩と文学伝統(過去との意識的断絶をいうが、美学的構造は伝統的)、③翻訳の問題(詩論さえも難解で、この点でも何とかならないか。小説はなされているが)などである。ヨーロッパの人たちは<詩>の在り方を概して社会構造的にとらえているようだったし、<詩>に対する姿勢も<個人的>ではなかったとは相沢の意見。

▼鈴木満詩集『吉野』(国文社 定価2000円)が81年度「茨城文学賞」を受賞した。

 中正敏詩集『ザウルスの車』が井手則雄氏の卓抜な装丁で、詩学社より10月刊行された(定価1500円、〒250円)。比類なく重く、かつ洗練された詩集。『吉野』もそうだが、日本の現代詩の健在を示すものである。

 一色真理の新作品集『夢の燃えがら』(装画・装丁鈴木翁二 花神社 定価2000円)もまもなく観光される。

▼木村雅信の作曲作品が「東京第9回木村雅信作品リサイタル」で、82年3月31日PM7より青山タワーホールで発表される。内容はピアノ・プレリュード、無伴奏チェロのためELEGIA、アイヌの素材による舞曲集など。入場券1500円。

▼今号、紅林いさ子氏退会。新たに大瀬孝和氏参加。大瀬氏は43年生まれ、66年キリスト者としての生を選択。『射撃祭』『円』同人。

▼松下義博は以前の冬京太郎に改名する。

(西)

 

27号(1982年4月)

●詩は社会的存在

 

▼ビート詩人アレン・ギンズバーグが、詩集『吼える』の出版25周年を記念して、ブロードウェイで自作の音楽と詩の朗読会を行った。また11月に行われた詩の朗読会は、ニューヨークだけでも20は越えたようだ(81年11月『ニュー・ヨーカー』)。

 その連鎖反応か、在日アメリカ詩人による詩の朗読会も2月にあった(東海大学国際友好会館)。D・ライアン、M・ウィトペック、女性のS・レニカー、J・スチュワート、L・ドナルドソン等。本誌の遠山、一色、日原も詩の朗読会に積極的な発言をしている。また斎藤直巳の『草木巡禮』も朗読を前提とする。孤立を好む詩人が<詩の肉体化>を問題にするとき、何かのっぴきならない世界の予感がする。何故朗読なのか、詩だけの問題ではない。(相沢史郎 記)

▼レアリテ叢書は、3月の第7集松下和夫詩集『一対一』につづいて、4月には第8集仙石まこと詩集『ある視座』、5月には第9集こたきこなみ初詩集が予定されている。またレアリテ叢書も、3月には第2集佃学詩論集「詩と献身』が実現した。一昨年末に着手した叢書、選書はあわせて10冊近くなったが、これをセットで置く常備書店も少しずつふえている。レアリテの会が内包し、志向するものは、この中に最も端的に示されているはずである。『舟』と共にぜひ手にとっていただきたい。一般書店を通して注文購読も可能。

 同人著作では他に、昨年末、仙石まこと詩集『メランコリイ・キャフェ』(風鐸舎・800円)、1月、斎藤直巳詩集『草木巡禮』(VAN書房・700円)、一色真理作品集『夢の燃えがら』(花神社・2000円)、2月、中正敏エッセイ集『詩とともに』(VAN書房・1000円)が刊行されている。いずれも、一読に値するものである。

▼中正敏は右の本の<あとがき>で、

 「いま地軸は俄かに傾いてきたようだ。まっすぐ立っているつもりで、変なほうへ旋回させられているかも知れない。デジタルな感覚だけでは生きられない。自身の立つ姿を見きわめる静かな理性が求められる」

 といっている。曇りない感性は詩人のものである。その詩人が、いま、あえて“理性”をという。44年、A・カミュがナチスの“狂気”と向き合って“知性を”といったのを想起する。暗黒と対峙して、詩人の感性は理性と合体しなければならない。

 詩は、小さな詩壇の中の存在ではない。詩は社会的存在でなくてはならない。最近、詩人の公的団体の長である人が、大人数の同人詩誌をヤユしているのを見かけたが、マスコミに抗して少なくとも現在の『舟』ごときに何ほどのパワーがあろう。みずからが立ち、詩を書く場所を、詩人はまず見きわめる必要があるのではないか。

▼昨秋、新潟県現代詩人会が経田佑介を会長としてスタートした。恐らく、権威主義に傾かない、今後この種の会のフレッシュなモデルケースになっていく気配が感じられる。

▼今号より、詩集『幻華』の黒羽由紀子氏が参加。目次画の小紋章子氏が同人に復帰。

▼表紙画谷口幸三郎氏の新作個展が、3月23日から4月3日までお茶の水画廊(電話814・3909)で開かれる。

 東京第9回木村雅信作品リサイタルは、3月31日PM7より青山タワーホールで開催。入場料1500円。

(西)

28号(1982年8月)

●青春の特権でもある革新の火

 

▼名古屋で一行詩を提唱する『視界』という雑誌を月刊で170号近くまで出している池原魚眠洞という方がいる。井泉水門下で放哉や山頭火らとも知友、多年『層雲』の選者もされたが『層雲』にあきたりず独立したというから、『視界』は俳句という言葉を使ってはいないけれども、井泉水、碧梧桐、子規へとつながる立派な俳誌とみていいと思う。子規の確信が碧梧桐へ、それが井泉水の自由律へ、そのマンネリ化を打破するために遂には俳句という名称も擲ってしまう『視界』の道筋に、一見、俳句はあまりにも遠いところへ来てしまったとみる人もいるだろうが、これが俳句に真の声明をとり戻そうという真摯な願いをこめた逆説的非常手段であるとするならば、『視界』は子規の初心をまっとうに受け継いだものとみることも出来るのではなかろうか。

 この『視界』168号の巻頭で、魚眠洞氏は『朝日新聞』3月28日付福田清人氏の『層雲』『海紅』への批判“青春の特権でもある革新の火の持続は難しく、他へ移ったか”という言葉を引用し、これは人ごとではなく、“その昔自由律提唱者たちの意識過剰が、半世紀後の今日にも猶残っていて、他の俳句論や実作を蔑視しているのは苦にがしい限りといわなければならない”といい、”自由律表現だからよいのではない”といっている。つまり、俳句は形式とか名称ではなく”青春の特権でもある革新の火”こそ大事とするのである。俳句という名称さえ放棄された魚眠洞氏が何を念願としているかは、この一事でわかりすぎるほどわかる。すなわち、子規の念願したものは魚眠洞氏において少しも失われてはいないのである。

 口語自由詩を、戦前一つの極点まで推し進めた『詩と詩論』の北園克衛氏、滝口修造氏の死につづいて、今年は上田敏雄氏、西脇順三郎氏も逝去された。『詩と詩論』への戦後評価はさまざまだが、その影響もまた大きい。村野四郎氏や、『荒地』及びその周辺の人達から間接的に何らかの影響を受けた人達まで含めると、現代詩は『詩と詩論』を抜きにしてはほとんど語れぬくらいその影響は深い。しかし、それから50年を経た今日、先の魚眠洞氏の言葉を詩に置き換えて読み直し、口語自由詩発生の地点まで遡ったらどうなるであろう。”青春の特権でもある革新の火”はいまだ持続されているだろうか。本の背に<詩集>と印刷すればそれで詩集となるのだろうか。詩人の公的団体に名前を登録し、名刺にそれを刷り込んだら詩人となるのだろうか。”なぜ、自由詩なのか?”と問われて、明確に答えることが出来るか。詩人が現代俳句を第二芸術と蔑視するのは易しい。しかし、何百年という伝統と対決する魚眠洞氏ほどの厳しさを、最近の現代詩にたずさわる人は持っているのだろうか。詩は形式とか名称ではなく、”青春の特権でもある革新の火”と自信をもっていえるだろうか。

 先年、『詩と詩論』の編集者であった春山行夫氏に、中野嘉一著『前衛詩運動史の研究』出版記念会の席でお目にかかったとき、氏が”ぼくらは異端だったし、いまでも異端だ”といって苦笑いされたのが印象的だった。そういえば、北園さんの死も、上田さんの死も壮絶なほど孤独だった。西脇先生はいまでは現代最大の詩人とされているが、『詩と詩論』はそれ自体当時は異端とされていたことを忘れないでいたい。すなわち”青春の特権でもある革新の火”がそこにはあったのである。今日、『舟』がの一色真理の『純粋病』、中正敏の『ザウルスの車』があえて<詩集>という名称を使わなかったことは、『視界』が現在あえて<俳句>という名称を放棄しているのと相通じるものがありはしないかと推測する。この捨て身の厳しさにおいて、この二著は詩の炎を奪回することが出来たともいえるであろうからだ。

 上田敏雄氏は『舟』にもたびたび寄稿くださった。いわゆる詩らしきものは書かず、詩の根源の開拓者を思わせる仕事に専念された。深く感謝し、冥福を祈る。なお、中野嘉一氏らの『暦象』でまもなく<上田敏雄詩集>号が出る予定。

▼5月、同人の生原央子を中心に女性ばかり6人の詩誌『ぐるうぷふみ』が誕生した。”言葉を持つということは、私の居る場所と状況が正しく見え、それを自在に表すことができるということだ。その存在の証言は、言葉であっても、造形であっても、音であっても、そのすべてであっても、ただその主張の態度があるのみだろう”。これは創刊号の生原の言葉である。いわゆる女流によりかかったようなものはひとかけらもない、それを峻拒した姿勢に貫かれている。全般的にかなりフレッシュで個性的だが、ここに掲載された生原央子、亀山明美氏の作品はずば抜けた現代の詩ともいえるもの。スペースがないので引用できない。発行所は生原央子方。頒布300円。

 6月、一色真理編集・発行の『黄金時代』1号が出た。十数年、ひたすら詩の根源をたずねてきた同人詩誌『異神』とは打って変わって、こちらはいわゆる詩のジャンルを破り、詩も、童話も、漫画も、歌も、あらゆるジャンルの垣根をこえて、より大胆な形式の中に現代の意味を探求していこうというねらいである。このねらいは面白い。そして、これは「同人誌」ではない、「カタログ」であるとして、”私たちがカタログといっているものは、半分は本気であり半分はパロディとして遊びを楽しんでいるのである”といっている。これもOKとして、しかし、これを詩人がやるからには、あらゆるジャンルにおいて時代の先端を切り拓いていくものでなければ面白くない。すべてにおいて二番煎じではなく、初物でなくてはならない。イラストも、レイアウトも、1号においてはきわめた新しいとはいえない。厳しいようだが、この世界ではいささかの甘えも通用しないのである。クールなセンスを期待する。発行所は一色真理方。頒布300円、〒代120円。

▼山形の塩山に身を置き、そこに根ざした詩を書きつづける矢崎勝巳の第2詩集『野鳩の影』が柳正堂出版から刊行された(定価1500円)。”山頂を雲が掠めたあとの/空の一角が生む/暮色を追って/重力を失くした晩夏が/谷川深く滑ってゆく”。「晩夏」冒頭の一節だが、他の追随を許さない個性的な一人の詩人の出現をこの詩集は感じさせる。

 5月、日原正彦・日比野幸子共著『鮎子の日々』が私家版(1000円)で出された。父の詩17篇、母の娘4歳までの記録と随想、それに娘の絵2点を配して、娘4歳の誕生日にプレゼントした、きわめて内輪的なものである。詩についていえば、日原の詩は1冊の詩集として出せる分量である。しかし、詩集とせずに単に娘へのプレゼントとした。ささやかな行為だが、詩作と、本作りの原点を示すような本だ。詩集『輝き術』によって出発した詩人は、いまや一人の娘の死と一人の娘の生誕に導かれて世界に至ろうとする。”鮎子にみつめられていると/ほこりっぽい葉っぱもどんどん若がえるらしい/ゆれるたびに/きれいな水の音がするくらいだ/鮎子がまた笑った/大きなやさしい風が笑い声をなめにくる”(「葉っぱ」部分)。詩人が感性をとおして得た確かなもの、それは宝石以上のものだ。これは、娘をとおして得た詩人とその妻の成長の記録ともいえるものかも知れない。

▼「レアリテ叢書」第8集は、昨年末、詩集『メランコリイ・キャフェ』で多くの共感を集めた仙石まことの新作詩集『ある視座』で、目下販売中。

 第9集はこたきこなみの初詩集『キッチン・スキャンダル』で、7月中旬発売予定。主として『舟』に発表された同題の作品23篇と、他に6篇。この詩人の個性的で確かな作風は『舟』をご覧の方にはよくわかっていると思うので何もいわない。一人の詩人の誕生をよく見守っていただきたい。

 第10集は九州延岡市で金丸桝一氏らの『赤道』を編集するみえのふみあき氏の新作詩集『方法』で、これは「レアリテ叢書」ではレアリテの会同人以外の初めての詩集である。詩は、感覚をとおして日々刻々得る新たな認識である、この詩集をみていたらそう思いたくなる。今日この国で出ている詩集の中では最も高度かつ精緻な詩集となるだろう。「レアリテ叢書」(詩集)、「選書」(論集)は同人に限らない。同人以外の方の参加も歓迎するが最初にみえのふみあき氏のような方が参加されたことはこの上もなく心強い。校正に入ったので7月下旬にはお目にかけることが出来よう。なお、この「叢書」「選書」に参加されたい方は、発行所宛お問い合わせください。

 「レアリテ叢書」第3集は関根隆『わがアニマ論』に決まった。昨年秋出た「叢書」第6集詩集『東洋のアニマ』の内面探検といいたい、詩集と同様に、きわめてユニークで、スリリングなエッセイ集である。署名を外せば誰が書いたかわからない没個性的文章が氾濫する今日、これはまぎれもなく詩人の手になるものといえるエッセイ。9月中旬刊行。

▼中正敏著『ザウルスの車』(詩学社刊)が第10回壺井繁治賞を受賞した。先の一色真理著『純粋病』のH氏賞受賞と同様、詩集でない本が詩賞を授けられたことは面白い。

 井奥行彦詩集『紫あげは』(火片発行所)所収「友達」が第2回詩と思想新人賞を受賞。

 ところで、毎月さまざまな詩誌、詩集を戴き、こちらも『舟』や『レアリテ叢書』『選書』を作り、それをさまざまな方に送りながら最近思うことは、作った本にいますぐどれだけの反響があったかということは誰しも気にすることであるが、大事なことは、いますぐの反響より10年、50年先にはたして自分の書いたものが必要とされ、読まれるかどうかということである。いま10万部売れたからといって10年先にそれが同じように読まれるということは期待出来ない。ある雑誌に高名な詩の批評家が、あまりにたくさんの詩の本が送られてくるのでメイワクだ、というふうなことを書いていたが、批評家に本が送られてくるのは当然のことで、批評をすることを自らが引き受ける以上は、その本を保管する倉庫位はじめに確保すべきではないか。中には本に風呂場まで占領されて風呂屋に行かなければならんとぼやく方もいるが、アルバイトをやりながら音楽家を志すハイティーンがメシを一食抜いて練習場を確保するのを見習えといいたくなる。第一、本の価値を決定するのは時評家等ではなく、10年、50年先の読者なのだ。『舟』はいますぐの反響にはあまり期待していない。じっくりと腰をすえて自分に納得のいく仕事をしたい。

▼今号佃学氏退会。山下政博氏休会。中村えつこ氏入会。中村氏は詩誌『測る』の発行人。

(西)

29号(1982年10月)

●詩も全文化も同じ人間の所産

 

▼この8月は、1日、台風10号が中部日本に近づく中を奥浜名湖の旅館に向かった。前々から一度お目にかかりたいと思っていた池原魚眠洞氏に会うためである。猛烈な風雨の中でこの念願は果たされた。魚眠洞氏はやはり想像していた通りのすばらしい詩精神の化身であった。故西脇順三郎氏と同じ年のお生まれとお聞きしたが、その情熱と純粋さ、フレッシュな感性と深い見識には圧倒されるものがあった。何よりも驚いたのは、そのとき氏が発行される『視界』別冊として「西脇順三郎追悼特集」が、きわめて内輪的ながら立派な小冊子として他誌にさきがけてすでに出されていたことである。(商業ベースではなく、この内輪的という点がまた何ともいえずいい)。詩人に肩書や格好は必要でなく、必要なのは中身である。そして、その中身は良くも悪くも詩人がやったことの中にすべて出してしまうものである。そのやったことの意味を、深く正確に見透かす目を持たなければならない。作品はいうまでもなくその行為の最たるものである。魚眠洞氏との出会いによって、詩も人間も100年単位で考えなければいけないという思いがいっそう深まった。

 8月は、生の深淵をのぞかせてくれる月である。このようにして始まった今年の8月は最終日曜日、茨城の海で締めくくられた。茨城の海岸は、たとえば四国や、伊豆や房総と比して、とにかく大きさを感じさせてくれる。ちょうど前日からいた日原正彦と別れて、その日の午後ぼくは、黒羽由紀子、鈴木 満と3人で、大竹海岸の潮風に吹かれていた。海は感性を洗ってくれる。他の友ももっと誘ってくればよかった、と思った。しかし、どうもうまく計画できない。"計画することと、実行することとは別のことだ"とボードレールはいったが、彼もいいわけのうまい男だ。ともあれ、この夏は、浜名湖の奥座敷で始まり、茨城の海と空で終わった。

 さて、いまのこの日本に起きているさまざまな社会現象は、つまるところいま生きている日本人の感性と知性の所産、表現にしか過ぎないという言い方もできよう。もしそうならば、政治も経済も文化も教育も芸術も、すべての根は一つであり、文学だけがそれらから切り離されているわけではないということになる。詩は、書いた本人の意図が何であれ、それをその時代、その民族の文化現象とみることもできるわけで、詩人はそれを拒むことはできないということになる。ここで詩人が考えなければならないことはどういうことであろう。文化も、政治も、教育も、さまざまな社会現象はすべて同じ根から生まれたものであり、それらが結局、今日の日本人の感性と知性の所産に過ぎないのだとしたら、その根源的なところに詩人は目を向けなければいけないのではなかろうか。そしてまた、いま起きているさまざまな事象が、単に偶発的に起きたものではなく、長く、深く用意されたものの中から、逃れようもなく、必然的に起きているのだということをしっかりつかめば、結果として、1年や3年先のことは大まかな予測はつくはずである。'75年8月『舟』創刊時起草の「レアリテの会発足の覚え書」は、発表当時、オーバーなマニフェストだと非難される方もあったが、どれが7年後、いやこれからの日本文学が直面するであろう状況への、冷静な予測と、それへの対し方を示していたことに、その人達は気付かれなかったのであろう。

 時代がいかに深く混迷しているように見えても、所詮は人間の所産であり、表現なのだから、現代の人間を深く見透かすことによって現代の人間の所産の意味は見えてくるのである。現在の自称を見るということは、この100年の生のあり方をみるということであり、この100年を生きた日本人の感性と知性を見るということである。そして、詩人はそこにその方向性を見、それをみずからの中に組織し、それを生きなければならない。間違えられると困るが、これは伝統肯定論などとは全く違うし、また、いっさいの事象がほとんど瞬時に地球的規模で動いていることを無視していっていることでもない。問題は、もしも現代が完成と知性の方向を失っているとしたら、それに方向を与えるものは誰か。それは政治家でも、教育者でもなく、詩人だということである。なぜなら、詩人は人間が生きていく根源的なところに立っているからだ。

▼"批評もまた、新しい現実認識の一つでなければならない"(レアリテの会発足の覚え書)ということは、対象がいかに深く自己の存在とかかわり合うかということになるのだが、大河巌が『鮫』に連載している「戦後詩の前衛・序章」には、自己の全存在をかけた重みが感じられる。また、岡山の『裸足』156号で始まった井元霧彦の72年に没した岡山の詩人吉塚勤治論も、この意味で注目したい。

 羽生康二が『想像』に連載していた石牟礼道子論が10月に雄山閣から『近代の呪術師・石牟礼道子』という題で出版される。また、一色真理の書き下ろし評論『果てのない旅ー秋谷 豊論』が制作・地球社で11月頃刊行される。一色の評論は『地球』76号に「島国のまわりは海」、『詩と思想』年鑑83に「まだ探しているー<異神>から<黄金時代>へ」など予定。今年から『無限アカデミー』の企画にも参加している。

 青森の千葉 茂は再び『月刊メロス』の編集主幹に復帰。同誌の責任者芳賀清一氏は、遠山信男の「詩の暗誦について」の実践運動を同地域で展開予定である。実践には敬服。徳島の扶川 茂発行『戯』はかたわら、学習会を持って機関誌『別冊・そばえ』を出していたが、誌名を『櫓』と改め、太田秀男を発行人として7月、第1号を出した。メンバーは11名。現代詩に対してしっかりした見識を持つ人を中心に、地域の参加者のためのこうした学習会を持つということは、商業主義の詩の講座などがはやる今日、見直されてよいことかも知れない。

 新潟の経田佑介のアメリカでの詩体験は、自身の『blue jacket』、大阪の『銀河詩手帖』にも連載中なので併読されたい。

 札幌の木村雅信もエネルギッシュだが、この夏のピークは7・13『ノーモアヒロシマコンサート』、8・13『第2回札幌現代音楽展』、8・30『木村雅信ピアノの夕べ』であったろう。『ノーモアヒロシマコンサート』では、『舟』27号の井奥行彦の詩による「朗読とピアノのためのレクイエム」が初演された。この秋はスペインのアルコイ市で、バッハから自作までのピアノリサイタルを予定。

 『詩人会議』7月号に増岡敏和氏の「原爆詩のもう一つの系譜ー続『広島の詩人たち』抄」が掲載されているが、この中に松尾静明の「ノーモアヒロシマ」の驚嘆すべき詳細が出ている。木村、松尾の行為には、深くみずからが選びとったものがある。注目されたい。

 小紋章子の『JOINT EXHIBITION』が10月19日~11月7日、上野セントラル21・6F企画スペース・ニキで開かれる。なお、表紙画の谷口幸三郎展は8月下旬、京都のギャラリー・射手座で開かれた。

 菅野 仁はしばらく休会する。

(西)

30号(1983年1月)

●”作品がすべて”とは?

 

▼82年10月、羽生康二著『近代への呪術師・石牟礼道子』(1500円)が雄山閣より、また、11月、松尾静明著『二十二字詰三十六行ー禅の源流をたずねてー』(1500円)が仏通会より刊行された。ほとんど同時に両著を手にして思ったことは、詩人の行為の何であるかだった。両著とも何年かを費やした労作だが、端的にいってこのような著作は、多くの詩人に読まれることはないだろうし、また、このような書物によって詩人としての評価を得ることも、いまの日本の詩界では考えられないことだろう。詩人の評価はなによりも作品にかかっているし、作品の優劣が詩人の評価を定めるからである。

 作品がすべてである、というこの考え方に私も反対派しない。しかし、私が”作品はすべてである”というためには、まず、作品とは何か、そしてまた、作品にいったい何をみるか、ということが厳密に問いただされねばならない。一篇の詩があらわしているものは単なる意味内容や、ことばのテクニックだけではない。作者の資質、完成、知性、体験、まさに作者のすべてがそこには出ているのである。”詩人は鋭敏な花を持たなければならない”と、だれかがいったが、いかなる作品にも作者のすべてがにおい立っているのである。作品とは人間そのものであり、人間はトータルなものであり、従って、作品はトータルな人間においてみられなければならない。深い闇と、光においてみられなければならない。その作品(人間)が発しているひびきに耳を傾けなければならない。

 作品をこのように考えると、詩人の営為ははっきりと作品以前にあるということがわかる。一篇の詩の背後にある詩人の厖大な背景こそ量られねばならない。作品は決して偶然に生まれるものではなく、その作者の全体験を担って生まれてくるものなのだ。”<個の生の充実と、深化>ーーこれは今日、あらゆる詩人、芸術家にとって最重要課題のはずである”というのは、レアリテの会が目標としているものでもあるが、この意味で、前述の著作は、詩人羽生康二、松尾静明にとっては一冊の詩集以上に重要なものであるにちがいない。両著作とも、単なる研究書や、評論集ではない。

 ”石牟礼道子の作品・その言葉の分析を通して、著者はみごとにその本質を取り出してみせた。まさに現代神話の構造はここにあるといえよう”。これは、羽生康二の著書に寄せられた鶴見俊輔氏の的確な評言だが、羽生は”これはぼくにとって詩論のようなものだ”と、あるとき私にいった。これは、羽生にとって重要なひとつの体験であり、冒険でもあったにちがいない。

 禅の源流をたずねてシルクロードや中国などに足跡を録した松尾静明は、鈴木大拙、久松真一、中村 元、古田紹欽、山田無文、渡辺照宏氏ら先達に直接お会いしたり、著書をとおして大きな感化を受けながら、仏通会発行『大愚』に、書名をともなった二十二字詰・三十六行の文章を定期的に発表してきたが、これが今度一冊となった。”身辺雑記にならないように、義学・解説にならないように、平易な短い詩を書くつもり

でつとめてきた”、”この書は、ひとつの考え方、生き方、歳の老い方だと思ってほしい”と、著者はこの本の冒頭でいっているが、これもまた、ひとつの大きな体験であり、冒険であるといえよう。しかしながら、『二十二字詰三十六行』は全篇詩のにおいがするし、詩の輝きがある。これを一冊の詩集としてみてもおかしくない。

 羽生、松尾らにみられる詩人のこのような作品以前の営為を過少評価し、作品を技術本位にのみとらえていると、日本の詩はいつか枯れてくるであろう。”作品がすべてである”と軽々しくいうことはできない。作品にとっては”人間がすべてである”からだ。

 羽生槇子、康二夫妻が発行する『想像』はわずか8頁の小冊子だが、このような営為がねばり強くつづけられている。冬京太郎個人詩誌『垂線』も詩の原点をみすえている。

 宮崎高教組織機関誌『あゆみ』76号は小特集として「教科書問題の周辺」、組合員文芸小集、現場からの報告等を組んでいるが、この中に書かれた金丸桝一氏のエッセイ「詩と詩の現場」などを読んでいて、ふと、これは詩の雑誌ではないかと錯覚した。一因は、氏のエッセイが現代詩に対してきわめて示唆に富んだものであったこと、いま一つは、「教科書問題」の小特集のようなものが詩の雑誌にあっても少しも不思議ではないということにあったようだが、つぎの瞬間、これは組合の機関誌で大方の詩人には読まれないものであること、また、いまの詩誌がこのような小特集を組みなどということはほとんどあり得ないということに気付き、複雑な気持ちになった。しかし、あらためてこの機関誌を全頁めくってみて、これはすっかり詩誌だと叫びたくなった。詩らしいものが並んでいるから詩誌であるとはいえないのだ。”作品がすべてである”。『舟』は作品を重視する。しかし、『舟』が作品をどうみているかが問題なのだ。

▼生原央子はふたたび渡辺みえこの何戻って、11月、第2詩集『南風』をライオネスプレスより刊行した(定価1000円)。後記に”私は運動をする時も様々な筆名を使っている。それらが全部渡辺えみこでかまわない社会、私のような者(支配の秩序に反する原初的欲求を持つ者、平等、平和を望む者)にとって虚構でない社会のために、絶望しないことを友人たちは示してくれている”とあるが、ここにある詩は彼女の闘いのなかから生まれた詩である。彼女は、闘わねばならないということをよく知っている。行動のなかからつかみとられた言葉はフレッシュで、飾りがなくリンリンと輝いている。

 なお、渡辺えみこは住所も移転した。新住所は同人住所録に記載。

 鈴木 俊のここ10年間の作品をまとめた詩集『唖』が、11月詩学社より刊行された(1800円)。『舟』に参加してまだ日が浅い鈴木 俊を知る良いチャンスである。一読してここには少年のまなざしもあるが、不思議なことに少女のような屈折した感性もあるのに気付く。きわめてナイーブで、鋭くて、しかもそこには50年を経た体験が透けてみえる。だが、重要なのは、この稀有の感性をとおして未見の高みに至ろうとする詩人の本道を、彼がいま歩きはじめていることであろう。先年出された私家版訳詩集『愛の呼びかけーエリカ・ミテラー詩集』に予感したものは、ここでまさに的中したという感じである。松永伍一氏の真摯な跋もよく、井手則雄氏の装画もはまっている。

▼同人参加希望が増えているが、新年度30号より次の3氏の参加が決定した。

 おぐらかおり 福田万里子、新井豊美氏いよって創刊された『ゔぁん』('82年9月、23号で終刊)同人の経歴を持つ。

 小林文麿 '59年、山形市生まれ。早大中退、現在は金属工。

 本橋克行 40代後半に入り『詩学』研究会に通いはじめて2年余。'82年秋、第1詩集『声のない会話』を詩学社より上梓。

 同人参加条件は、第一に詩人としての資質、第二に「レアリテの会発足の覚え書」(『舟』27号掲載)への共感、この二つであって、詩歴などは問わない。現在の作品の完成度より、その詩人の未来の可能性を重視したい。

 また、『舟』をここまで支えてきてくれた最も大きな力は、同人の詩に対する純粋な情熱であることはいうまでもないが、定期購読で裏から支援して下さる方たちの存在である。更に、出版物の困難な流通事情のなかで発売元として、利益を度外視して協力下さっている冬至書房新社の方たち、印刷面で無理を聞いて下さる内藤印刷、無償で表紙画、目次画等に同志的協力を下さった画家の方たちにも、ここであらためて御礼申し上げたい。『舟』はいま、大きな力に支えられていることをはっきり感じることができる。時代がどのようにうねろうと、『舟』は詩の大道を踏みはずすことなく、期待に応えていきたい。

▼11月23日、岡山市民会館で行われたパネルディスカッション「現代詩を展望する」(司会・有本利行)にリポーターとして、井元霧彦、なんば・みちこが参加した。

 一色真理は11月13日、愛媛大学学園祭で、11月28日、福島県詩人祭で詩の講演を行ったが、3月23日、無限アカデミーで「なぜ今詩でないか=詩とSF、ゲスト・井辻朱美」に、同30日、同じく「詩とマンガ、ゲスト・やまだ紫、鈴木翁二」に出演する。

 前号予告の、スペイン、アルコイ市での木村雅信ピアノリサイタルは、定員を50%もオーバーする盛況で、会場にはギターのホセ・ルイス・ゴンザレス氏らも見えて好評だったようである。このリサイタルについて彼は、”音楽に国境は無いという言い方は浅い。モードも精神もより強く個性的であるべきである”という。帰国して、12月4日、彼の日本舞踊の新作が、新橋ヤクルトホールで花柳徳兵衛記念舞踊団定期公演により行われた。

 10月19日~11月7日、上のスペース・ニキ企画「JOINT EXHIBITION'82」3人展に小紋章子参加。小紋の絵画の本領がよくうかがえる展示会であった。

 本誌表紙画の谷口幸三郎新作個展が、3月22日~4月2日、お茶の水画廊で開かれる。谷口の版画は版そのものを見なければちょっと説明つかないようなところがあるが、今回は版から版の表皮を剥ぎとったものまで陳列される予定。本号表紙の木版コログラフ原画寸法は940×640ミリ、かなり大きい。本号表紙画を決定する際、彼は前号以降3ヶ月間に制作した同寸法の版画約60点を持参してきて、このなかから選んでくれという。狭い部屋のなかで広げながら、その恐るべきエネルギーにこちらの血も沸騰する思いがした。その1点が今号の表紙である。

 こたきこなみ初の詩集『キッチン・スキャンダル』の出版記念会が、12月3日、新宿・中村屋で、小柳玲子、丸地守氏らのご好意で開かれた。内容の濃い、著者にふさわしい会であった。

 中本耕治 生活上の理由で退会。

(西)