季刊詩誌「舟」創刊にあたって西一知がめざした現代詩の在り方が、以下の覚書きとして掲げられました。


「舟」、レアリテの会発足の覚え書 -1975年5月

 

一、詩作は、単なる文学的営為と考えられてはならないであろう。詩の始源性は、詩が発生する場所すなわち人間の行為のレベルで獲得されるものである。今日、私たちが直面しているさまざまな人間的状況――政治、経済、文化、またあらゆるテクノロジィの世界において最も必要とされるものが、実は詩人の深い洞察力であるということができよう。私たちは、単に既成の文学的世界に執着する安易な精神とその営為に訣別するものである。

 

一、普遍的・古典的人間は観念の産物にしかすぎない。人間は、つねに蘇生するものだからだ。一つの人間的規範、文学的規範の復活に、私たちは目を光らせる必要がある。それは、詩人の自由な精神を抑圧または圧殺するものであるからだ。私たちの詩は、私たちの人間的基盤=「現実」から生まれる。その中に含まれる生の主題は、何ものによっても拘束されてはならないであろう。

 

一、美に一つの普遍的規範というものはない。もしそうでなければ、どうしてクリエイトするということがあり得よう。「創造」とは、生ある人間にとって、必要かつ最低限

の行為なのだ。それゆえに、それを過小評価することはできない。詩作は一つの行為である。私たちはそれを感受性をとおして深めていきたい。感受性を離れたところの

いかなる精緻な論理の展開も、批評も、創造にはつながらない。批評もまた、新しい現実認識の一つでなければならない。

 

一、いまや、詩人の行為は個の生の危機との戦いである、ということができる。個の生の危機は、今日私たちを取り巻く人間的状況、文学的状況のいたるところに現れてきている。私たちはそれに目を閉ざすべきではない。詩作はいまや文学のためにあるというよりも個の生の復権のためにあるべきだ、ということができよう。

 

 「詩は、感受性において深く人間の内奥にかかわるものであり、それはまた、全人間的なものであるがゆえにこそ時間と共にしか熟成され得ないものである。詩人の営為は、言葉の厳密な意味において「沈黙%想像力」の中にしかない、といえるからである。このことによって、私たちは当然のことながら、詩人の営為の最終的帰結としての作品を重視する。しかし、これは作品至上主義を意味しない。

 真に生命的なものを失ってしまった既成のモラルと美学への抵抗、そして、生きるということが本来、あらゆる形骸化したものによる庇護を拒絶し、みずからの内なるものを顕現化するその創造行為の中にあるとするならば、詩人の行為はおのずから最も厳しい前衛性を帯びてくるであろう。そして、それはかつての“今日の前衛は明日の後衛”といった類の、単なる美学的、イデオロギー的現象面における前衛といったものではなく、個の意識およびメンタリティの最も深い次元における「人間蘇生」の最前衛としての苦悩と、栄光を担うことでなければならない。なぜ同人誌なのか?いや同人誌でなければならないのか?”。これは、発足にあたって、私たちが私たち自身に向かって発した鋭い問いでもある。

(西一知記)