西一知が編集・発行した季刊同人詩誌「舟」の毎号の後書きは、「季刊同人詩誌『舟』の軌跡」と題されて書籍になっています。第1号が発行された1975年からの同人の活動が刻々と紹介されています。また、日本の社会状況や現代詩の世界の動向なども垣間見ることができます。


舟6号(1976年12月)

表紙画・山下菊二

扉画・日和尊夫


●詩的状況を離れた場所で

■本号では特に企画したわけではないが、シュルレアリスムを批判するエッセイが二つ揃った。上田敏雄氏の寄せられたNEODADA宣言「猿の生誕・宇宙開闢説」と、一色真理の詩作行為の根源に関する「識られざる神」である。戦後わが国のシュルレアリスム論は、現象論、技術論が多かったが、詩と人間の根源に関して、このように独創的オピニオンはきわめて少なかったと思われる。これらは、今後のシュルレアリスム論に、新しいモメントを加えることになるだろう。

■武子和幸詩集『懸崖の風景』が無限社から刊行された。第1詩集『ひとつ火燭して』(国文社刊)から6年、充実した詩集である。経田佑介詩集『悲歌/心臓詩篇』は、昨夏急逝された弟、関俊輔氏に捧げられたもの。戦後日本ときびしい北国の風土にうずく心臓の鼓動が、どきどき伝わってくる詩である。自家版といえるblue jacket press刊。日和崎尊夫帰日第1作、自画自刻自摺木口木版画集『海想譜』(全10葉)が、シロタ画廊より今月末刊行される。本号目次画の原画も同画集に収蔵されている。なお、目次の木口木版画は原寸。

■本号表紙画は山下菊二氏の「オト・オテム」M50、1951年作(第4回日本アンデパンダン展出品)の部分、縮小。

■1976年の詩的状況をはなれたところで仕事をする方がよい、と思ったことだった。しかし、それは、それに背中を向けるということではない。歴史は、これを書いている間にも大きく変わっていく。政治、文化、教育その他あらゆる分野における人間の頽廃と、荒廃の根を鋭くみつめることなしに、人間と詩の復権はあり得ないからである。本誌4、5、6号の3回にわたって掲載中の中正敏の文章が、あえて同人詩誌に発表され、現代詩に対して突き付けているものは何であろうか。私は、T・Eヒュームの“目は、泥の中にある”ということばを、思い出していた。非常に深いところで私たちが問われているもの、それは詩の権威ではなかろうか。私たち「レアリテの会」は中正敏の文章によって、私たちが希求するものに対して、つまり、究極の詩に対して、すでに一気に降下してしまったのだ、ということを感じる。

■本年も、多くの詩誌、詩書の寄贈をいただいた。注目すべき、ぜひ多くの人に紹介したいものも少なくなかった。エスプリの交流、来年はそれにもっと力を注ぎたい。  (西)

 本号編集同人  相沢四郎 遠山信男 西一知

 

 

舟7号(1977年3月)

表紙画・山下菊二

扉画・斎藤隆


●魂の鍛冶場としての同人誌

■「僕が宇宙的と呼ぶものは、<芸術作品>の本質的な資質である。というのは、それが、すべての組織体の生命にとって必要な条件としての秩序をふくんでいるからだ。複雑で多様かつ迂遠な諸要素は、作品のなかに、多少とも強く集約されている。芸術家は、それらを集め、選択し、配列する。そして、そこから、ひとつの構造ないしはひとつの構成をつくりだす。秩序とは、普遍的な能力、簡潔さ、正確な純粋性の支配する統一の表象である。

宇宙的なものにはふたつの原則がある。1、宇宙のそれぞれの対象、存在、材質、組織に均等な重要性を付与すること。2、人間の重要性を浮かびあがらせること。その周囲に、存在、対象などを集結させ、それらを人間に従属させること。

この第2の原則の核心は、心理学の方法である。危険は人間を『修正』しようという欲求にある。優れた存在をしてそれがなろうと欲するがままにまかせることが問題なのだ。詩人は時の流れや印象も顧みずに、あてもなく導かれてゆく。第1の原則に関して言えば、そうした必要性は新しい形式をとるだろう。すなわち、人びとを他のあるがままの諸要素のかたわらに羅列し、人間を『よりよいもの』にするという形式。

 僕らの用意する生の大伽藍で、ひとしく匿名で仕事をせよ。」

 トリスタン・ツァラの『ダダ宣言』中≪ランプ製造工場≫の「ピエール・ルヴェルディタランの泥椿J の一節を引用した西宛遠山信男の手紙は、まだこのあと蜓々とつづくが遠山は右の言葉を読みかえしながらそこに”いわば魂の邂逅とでもいえるようなあるものを感じております” といい、”『近似的人間』というあのすぐれてコスミックな詩集の夜空をつくっている思想の原核をここにみることができるように思います” という。レアリテの会の内側で何が行われているかを示す一例として、この手紙全文を紹介したい気持にかられるが今回はこの位にしておこう。

▼ちょうど本号編集のさなか、西が中野嘉ー氏発行『暦象』84号に原稿を寄せることになった。同氏の労作『前衛詩運動史の研究』をめぐって同誌83号に発表された鍵谷幸信氏「モダニズム詩瞥見」に対する私見「前衛詩運動史をどうとらえるか」という小文である。鍵谷氏はこの中で”その系譜を新たに再構成することの必要”を説き、”傑出した詩才の所有者である西脇順三郎、滝口修造、北川冬彦らと大半の不毛な者らの詩とを厳しく識別せよ”といっているが、前衛詩運動において重要なのは、そこにいかなる意識が参加したかということである。鍵谷氏のいうように、”詩の豊饒な実作者”の系譜のみを連ね、そこに”日本の詩の主流”の歴史を性急に作り上げることは、歴史の浅い日本の口語自由詩の真の推進者であり、担い手である無数の目覚めたエスプリを消し去ることになるのではないかと思うのである。口語自由詩を支えるものは何であろうか。私は「多様さ」と「自由」と「発見された真実」——一言でいうならば、無数の<目覚めた個>だと思う。一人のギンズバーグの背後にあった数多のリトルマガジン、数多のエスプリと生活こそ重要なのではあるまいか。発端で、ほとんど何ものも残さず消えていった火付け役に目を注ぐことなしに文学を理解しようとすることは、重大なあやまちを犯すことになろう。”なぜ、同人誌なのか?“と再びいいたい。同人誌は何も中央志向型ばかりではないのである。強力な意識集団、魂の鍛冶場としての同人誌も決して少なくはないのである。

▼”全く時間が停止してしまったようにみえる防府市大道の旧い家並の一角に、永遠の現在に生きているひとりの存在を、ひとは忘れることを許されないだろう“と中野嘉一氏が前述の大著の中でいう上田敏雄氏は、このところほとんど毎号あたかも同人の如く原稿と分担金を送って来られる。1900年生まれのこの大先達のラジカルなエスプリには圧倒されるものがある。

▼詩集『エロスの破片』(風涛書房刊)を昨年上梓した関根 隆氏が今号から同人として参加した。

▼この3カ月間に同人詩集が3冊刊行された。

本多 寿『避雷針』(鉱脈社・1800円)

岡崎 純『極楽石』(紫陽社・1600円)

鈴木 漠『風景論』(書隷季節社・1800円) 

 いずれも、四六判、函入り上製本である。同人著書を自賛することは控えたいが、ぜひ一読をおすすめしたい詩集である。若い本多 寿詩集はおそらくこれが第1詩集であると思う。本誌に発表の「春雷」「避雷針」「落雷」等も収録されている。宮崎のみずみずしい感性に注目されたい。岡崎 純詩集は第2詩集『藁』以後10年間の詩を集めたもの、北陸農村の寡黙な生と死を主題としている。この詩集の跋で生死の境にあったという黒田三郎氏が”一年目にやっと勇気をふるってよみ、よんだあとでは、言いようのない、しずかで落着いた気持になることができた“と述べている。鈴木 漢詩集は1973年刊行の『二重母音』以後3年間の詩の中から編まれた第5詩集である。”しばらくは姿を消せ 風景に席をゆずれ“というJ・シュペルヴィエルの言葉が扉裏に録されている。なお、同時期に書かれた他の主題による詩により今夏第6詩集『火』が同じ書肆季節社から刊行される予定。日原正彦詩集『鋼の土筆』が詩学社より5月頃刊行の予定。また、相沢史郎の方言詩集も着手された。

▼レアリテの会同人は本誌以外の場所でもさまざまな活動をしているが、その一つとして菅野仁が6年ぶりに福島市で詩誌『蒼群』の第6号(A5判62頁)を出したことを報告する。

▼表紙画は山下菊二氏1968年作「転化期」(162X243㎝)部分。目次画は斎藤隆氏1968年(25歳)の作だが、このほど沖積舎より画集『鬼』が刊行されたのを記念して寄せて頂いた。感謝します。 (西)

 本号編集同人  相沢史郎 遠山信男 中正敏 西一知

 

 

 

 

舟8号(1977年6月)

表紙画・山下菊二

扉画・多賀新


●中産階級意識と詩の繁栄

■詩誌『詩の家』(77年3月発行)西山克太郎氏の詩「未明の門」に深く注目させられた。この詩は、戦時中治安維持法違反の被疑で拘禁された作者の体験がさらに一層深められて息づいている今日的作品といえよう。この詩のかなりの部分は、ベッカリーア「犯罪と刑罰」「監獄法」等の条項で埋められているがこの詩の最後は次の言葉で終わっている。

 <ほんとうの専制主義はまず世論を支配することからはじめ、世論をうごかせるようになると、専制主義のもっとも恐れている勇気のある魂を弾圧することにかかる。なぜなら勇気のある魂たちも、真理の光にてらされてはじめて世論の前に姿をあらわし、危険を知らない情熱のほのおとなってはたらくことができるのであるから。>(同書・三三、公安について)

 さて、今日世論とは何であろうか。多くの詩を支えている根底の意識は何であろうか。史上空前の倒産がもう2年近くも続いているなかで、見せかけの豊かさと平安に小さく依拠しながら今日一日を過ごす大半の中産階級意識。この意識と、今日の詩人の意識は無縁であろうか。動かされる世論のなかで飼い馴らされるこの小市民意識と、今日の見せかけの詩の繁栄は断じて無縁ではない。

 「君が代」を「国歌」として復活するのは主権在民の思想に対する明らかな挑戦であると思われるが、「世論調査でも77%が国歌として認めている」という海部文相の理由(朝日新聞77.6.10号)には味わうべきものがある。「核」「公害」を抜き去り、「君が代」を「国歌」として教育の場に復活させるものに強い権力のにおいを感じるが、この世論を支配することの次に何が用意されようとしているか、ベッカリーアを引くまでもあるまい。詩人は、大きく目を開くべきときであるように思われる。

 西山克太郎氏の詩はごく一例であるが、このような詩人の存在に正しい照明を当て直すことから、戦後詩はもう一度見直されるべき段階にきていると思う。この意味で詩誌『apocr.』における佃 学氏の故•森川義信研究等は、最近注目すべきものがあろう。

■『詩学』夏の臨時増刊号が「同人詩誌」特集等とあわせて、仮題<詩の復権>「詩論」特集も行なうということで、本誌からは一色真理、井元霧彦、西 一知が参加予定。ごー読いただきたい。

▼本号表紙画は山下菊二氏が本号のために新しく制作されたもの。わずかに縮小。6月15、16日、高円寺会館で『野田真吉新作映画個展』上映予定(PM6.50より、400円)。

①「くずれる沼―画家山下菊二」(初公開、50分)

②「モノクロームの画家・イヴ・クライン」(64年制作、40分)

③賛助出品映画「葬列」―山下菊二の形象ドキュメント(森弘太監督作品、10分)

 本誌表紙画を、5、6、7、8号と1年間同人的立場で寄せてくださった山下菊二氏にあらためて感謝したい。

 次号からは、稀有の鉛筆画家・斎鹿逸郎氏が引き受けてくださることになった。

▼本号目次画は、多賀新氏の銅版画「翳(かげり)W132」(171x174mm)。6月6~18日、シロタ画廊における『多賀新銅版画展』に出品されている。なお、同展はシロタ画廊のあと大阪ギャラリープチフォルムで7月4~9日、札幌クラーク画廊で8月5~27日開催の予定。多賀氏は46年北海道生まれ。

▼詩人と画家の結合は、単なる友情を超えて時代の深部において詩=真実を共有するものでなければならないと思う。人間の手になるあらゆる形象は決して単なる形象ではない。その存在の深みにおいて、私たちは新しい詩と同様に絵画も発見するだろう。

▼相沢史郎の方言詩集の題名は『悪路王』と決まり、盛岡在住の詩人高橋昭八郎氏装禎で青磁社から6月末刊行される。A5判、64頁で14篇の詩が収録されている。自註の方言解説(6頁)もユニーク。定価1000円。地方の書店でも入手できる見込み。

▼女性の少ない本誌に一度に2人の女性詩人が加わった。

 昨年、処女詩集『眼を生む』を父君鶴岡政男氏装禎で詩の世界社から上梓した吉田ひろ子。

 一昨々年末、第3詩集『アルファベット』を新書館から上梓した油絵画家としても活躍している小紋章子。なお、彼女は画家・針生鎮郎氏の奥さんである。

▼発売元に沖積舎

 本号より沖積舎(舎主・沖山隆久氏)が発売元として助力してくれることになったため本誌取扱い書店がぐんと広くなった。

 

本号編集同人 相沢史郎遠山信男中正敏西一知

 

 

舟9号(1977年9月)

表紙画・斎鹿逸郎

扉画・城所祥


●既成の文学概念の破壊を

▼書きたいこと、書かねばならぬことは多くあるが、本号は予定を20頁もオーバーしてしまったためまたまた書けなくなった。同人費でまかなう小冊子のつらいところである。創刊から2年、季刊8号を経過したが、『舟』は内部に強い主張をもちながらも大体作品中心にやってきたので、8号あたりで一度それを明らかにしようということで、編集同人(相沢、遠山、中、西)4人の座談会を計画した。7月31日、暑い日をえんえん5時間費して録ったのだが、西の録音ミスでこれが完全に失敗(むろん酒抜きであった)。たまに地味な誌面を飾ろうと西がカメラを用意すると、相沢が”大丈夫かな”と合の手を入れたが、どうもこれがよくなかったらしい。カメラは成功したが役立たず、地団駄踏んでも追っつかないので各人急逮エッセイを用意することになった。逃げたナマズは大きかったというわけではないが、この録ミスの座談会はかなりの内容であった。その一部を列挙すると――、短歌と口語自由詩(伝統と個、西国と東国、行為と倫理、韻律と生命的なるもの、破壊と創造の弁証法)。Imaginationは想像力より構想力。詩は政治(中国的思考)である。詩は既成の観念を破るもの。前衛詩とは何か(抵抗と自由の問題)。神秘感覚。知性と理性の役割。個と普遍。具体と抽象。詩人の足元とその見つめ方。中浩の死の持つ意味。詩と国家・社会・文化。狂気.怨念・馬鹿。等々。本号の中、遠山、相沢エッセイにその片鱗を見られたい。西は次号まわし。

▼ナジム・ヒクメットの詩集は邦訳が2冊ほどあるが、本号・仙石訳の詩集はまだあまり紹介されていないらしい。これは、1977年の日本において鮮烈にアピールするものを持っていないだろうか。

▼上田敏雄氏「アンチ・ポエム論―赤軍必携Ⅰ」は『暦象』85号に掲載。併読されたし。

▼相沢史郎エッセイ、8月『化外』の<詩の寺小屋>報告は、単なる東北という一地方の問題ではない。現代詩の核に触れる問題があろう。今夏出版された相沢の処女詩集・方言詩集『悪路王』は、現代詩の特殊な一ジャンル「方言詩」のまれにみる高度な成功例として評価されるだけでは不十分である。これはまさに現代詩そのものであり、現代詩が失いつつある人間の核をきわめてヴィヴィドにとらえた最前衛の詩集として、現代詩の原点に問題を投げかけるものであろう。

 詩は、どのようなコトバで書かれようとそこに「詩」がなければ詩とはいえない。逆に詩はどのように書かれようと、そこに「詩」があれば誰が何といおうと詩なのである。

 詩集「悪路王』青磁社。1000円。

▼古くからの親しい詩の友からさえも『舟』の核は何だ、と聞かれる。上田敏雄と相沢史郎らが同居していれば、なるほど過去の詩の概念では簡単に割り切れぬものがあろう。しかし、ここに何が発生しつつあるかを、既成の文学概念をはなれてよく見つめてほしい。「名を付けるものは敵だ!」とかつてル・コルビュジェはいったが、部類わけすることで事足れりとする怠惰な連中の頭を混乱させることも、われわれの仕事の一つであるのだ。

▼「われわれ人間は、もう国にではなく、人類に忠誠を誓わねばならないのだ」。これは7月31日、被爆問題国際シンポジウムが開かれた広島医師会館ロビーで、被爆資料の前に立った一米科学者のコトバである(朝日新聞1月8日)。

▼残り字数が乏しくなった。8月6日、北長野に発禁詩集『過去』の著者西山克太郎氏を訪ねたことが忘れられない。このことについてはいずれ一文を書く。氏の健康を祈る。

▼『舟』表紙画は本号より斎鹿逸郎氏。本号のために恐ろしく細密な画を3点も寄せられたのには頭を下げるのみ。目次画「かつをぶね•まぐろぶね」(板目木版)は畏友城所祥氏の文化庁留学・渡欧を記念して。

▼『舟』全国書店で発売(発売元・JCA)

 『舟』は本号より、沖積舎、吟遊社等が母胎となってこのほど設立したJCAが販売を扱うことになり、日販、鈴木書店をとおしてその関係の全国書店、大学生協等で手に入ることになった。

 

 

舟10号1978年1月

表紙画・斎鹿逸郎

目次画・栗田政裕


●欠乏と飢えのの中から詩が

▼10号を迎えてようやく本格的な主張が現れた。日原正彦の詩論「方法の荊から」である。原稿とほとんど同時に到着した日原正彦第2詩集『鋼の土筆』(詩学社刊)をともに手にして感じたことは、この若きエスプリがくぐり抜けたきた闇の深さと、重さである。精神が真にものを見得るのは極度の欠乏と飢えの中においてであることは、確かなようである。こういう文字に接する場合最も重要なことは〈そこに何が書かれているか〉ということを、まず読む者の深いシンパシイで過たずにキャッチすることである。

▼真の詩と贋物を取り違えるのは、知識が乏しいからでも頭が悪いからでもない。デリケートな感受性を欠いたところにその真の原因があるのだ。まずもって自らが身につけた文学のアカを完膚なく洗い落とすことで、新しい年を出発しよう。

▼3年目を迎えて同人の入れ替りがかなりあった。今号参加の同人は、

川上京子(『風』同人、詩集『記憶宣言』)。

 23歳。その鋭敏な感覚に注目したい。

原田勇男(『方』同人、詩集『北の旅』)。

 仙台の稀有な魂の参加を歓迎しよう。

 なお、同人名簿からはずれた詩人の多くは、しばらく休んで再び参加したい意向をもっていることも付け加えておきたい。

▼遠山信男より手紙あり。本号所載の詩について西からの質問に答えるものである。

 ”前略「転定」について一報します。

 「昌益の徹底した平等観は、彼の文章の独特な表現となってあらわれる。たとえば彼は宇宙・世界という意味の”天地”のことを、”天地”の文字で書きあらわすことに反対する。”天地”という文字には、上下・高低・尊卑の対応関係、差別観念がしみこんでいるからけしからんという。事実、『易経』の『天は尊く地は卑しくして、乾坤定まる』(繁辞上伝)という理論は、二千年にわたって東洋人の頭脳を支配し、常識・感情にまでなっていた。天尊地卑の上下関係が固定してこと宇宙も社会も秩序を保ち、同じように君は貴く臣は賤しく、男は尊く女は卑しいという上下関係を確定することで社会は安定するとの説教が、朝から晩までを繰り返されていた時代である。昌益はこれにまっこうから反対し、身分上の上下関係のみならず、宇宙自然の天空と大地のあいだですら上下関係はないという。そこで彼は”天地”(てんち)と書かずに≪転定≫と書いて”テンチ”と読ませる。天空は転回し、大地は定位置にあるという機能上のちがいがあるだけだという。ひいては”天下”を≪転下≫、”天道”は≪転道≫と書く。

 このことは、彼の反権力・人間平等などの叫びが、一時の激情や、せまい憎悪感に駆られた衝動的なものではなく、宇宙観、自然哲学にうらづけられた堂々たる世界観の体系に発していることを物語ろう。(以下略)」『先駆安藤昌益』寺尾五郎著(徳間書店)より”。

 安藤昌益の”転定”(テンチ)。1978年初頭の日本の空を眺めながら考えるのにふさわしいコトバでもあろうと思って、少々長いが右の手紙を紹介した。

▼今号もいちじるしく紙数をオーバーしたので(標準64頁)、中正敏の手紙と西一知のエッセイは再び次号送りとなってしまった。

▼沖積舎で企画された詩画集『水夢譚』が予定通り去る11月刊行された。詩人5人がまず詩を書き、それに木口木版画家5人が画で挑戦(?)するというものであった。『舟』の関係では、目次画の城所祥氏が三好豊一郎氏と(この場合は画が先であった由)、日和崎尊夫氏が西一知と、本号目次画の栗田政裕氏が窪田般弥氏と組んで参加している。詩と画の組み合わせは非常にむずかしい。うまくいったかどうかは時間が判定するだろう。普及本(2000円)もあるが、参加者としてはできることならオリジナル木版画の入った限定本(50部、5000円)を見て頂きたい。

▼原田勇男の第2詩集『炎の樹』が「舟」10号と相前後して青磁社から刊行される予定。

▼本号目次画の栗田政裕氏の画は、沖積舎から刊行予定のミニアチュール画集の中の一点で、題名は”浮(うかれ)”。  (西)